中野京子「名画の謎 旧約・新約聖書篇」感想&なんで宗教画ってたくさんあるの?
「怖い絵」で有名な中野京子先生の名画の謎シリーズの文庫版です。
私が読んできた中野京子先生の著作(怖い絵シリーズ、名画で読み解くシリーズ)とは違い、今回の中野先生は、なんだか個人ブロガーのような文体で、まるで80年代のアニメにツッコミを入れるかの如く、聖書の矛盾点にツッコミを入れていきます。
これがかなり痛快。
中野先生の、なんでお前らこんな宗教信じてんのみたいな気持ちがひしひしと伝わってきます。
相当「聖書」というかキリスト教全般にウンザリしてる感あるね。
でもでも「聖書」は世界最大のベストセラーでもありますし、私たち異教徒日本人の視点からでも、教養が増えて役立つ話がたくさんあります。そりゃあ、世界一の宗教ですからね、いい宗教には違いないんですよ…(たぶんね)
この本では、美しい宗教画とその聖書の場面と、その作者である画家たちのドラマを、中野京子先生のキツいツッコミとともに楽しめる名著です。しかも名画はフルカラー!
中身は読んだ方が絶対楽しめるのですが、なんだか宗教画って聞くとなんだかモヤっとしませんか?
キリスト教って、偶像崇拝禁止なんじゃねえの?
知っての通り、イスラム教の預言者ムハンマドは偶像崇拝禁止の教義の為に、絵画や彫刻などにすることを禁止しています。
子供の頃にムハンマドの顔が描かれていない学習漫画を見て結構な衝撃を受けましたし(理由はよくわかんないけどトラウマ)。
ユダヤ教も偶像崇拝禁止は厳格に守っております。確かにユダヤ人の宗教画家とかあまり聞いたことがないですよね。
というのもユダヤ教の聖典は、旧約聖書(旧約という概念はない。新約=イエスによる新しい契約だから)とタルムード(口伝律法)なんだけれども、あの有名なモーセの十戒には
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。— 新共同訳聖書 出エジプト記20:4-5、「モーセの十戒」
と、あります。
モーセはエジプトで弾圧されていたイスラエルの民(ユダヤ人)をカナンへ導いた預言者です。
旅の道中、シナイ山へ寄ったユダヤ人御一行は、十戒を授かりに山頂に行ったモーセがなかなか戻って来ないので心配になり、金の指輪を溶かして作った黄金の子牛を神と称えて崇め奉ります。
これを見た神は大激怒。そりゃ、自分を差し置いて手作りの黄金の子牛なんて拝んでたら怒りますよね…モーセは神をなんとかなだめますが、モーセ自身も怒りに身を任せてせっかく神から授かった十戒の石版を破壊(短気かよ)黄金の子牛を燃やし、粉砕して水と混ぜたものを(けっこう手間かかるな)ユダヤの民に飲ませたそうな(そもそも、アンタの帰りが遅いから、みんな心配したというのに…)
その後モーセはレビ族に頼んで、偶像崇拝した民およそ3千人を殺害。
こんなん、普通に鬼畜の所業だと思うのですが、モーセはユダヤ教では当然、キリスト教、イスラム教でも最重要の預言者で聖人なんですよね…。
旧約聖書では偶像崇拝がどれだけ厳格に禁止されている訳をお分かり頂けたでしょうか。
偶像崇拝禁止なのに宗教画がたくさんあるのはなぜなの?
上記のように、旧約聖書では偶像崇拝を禁止してるのにもかかわらず、なぜ宗教画はたくさん存在しているのでしょう?
答えは割と簡単で中世のヨーロッパの民衆はキリスト教を信じていなかったからです
暗黒の中世(西ローマ帝国滅亡の500年頃からルネサンス開始の1300年頃まで)の時代、一般民衆は飢え、寒さ、伝染病などに苦められていました。RPGのゲームのマップに例えてみると分かりやすいのですが、村々は森の間に孤立しています。
RPGの森の中って、ゴブリンみたいな怪物とエンカウントしますよね?
ゴブリンは流石に現実にはいないにしろ、狼のような人間を捉える捕食獣など、危険がつきものです。ヨーロッパの森は、日本のような針葉樹ではなく、葉っぱが広くて大きい隙間のない広葉樹です。
迷いやすくて真っ暗な空。
村と村を行き来するだけでも死の危険があるわけです。
生まれてきた子供が、大人になる可能性は低く、平均寿命はとっても短い。
いつでもどこでも、死の恐怖とは隣り合わせです。
そんな中、シトー修道会という、ベネディクト修道会から派生した修道士の集団が現れます。
彼らの教義は「祈りと労働」でありました。
シトー会の修道士たちは、民衆の恐怖の源である森をバッサバッサ切って、畑を耕しました。大開墾時代の幕開けです。
しかし、当時の人たちは森信仰で、森を神々しい存在だと思っています。
日本でも、山岳信仰など、自然と厳しい存在を崇める習慣がありますよね。
だから、みんな森を拓くのは嫌がります。ですが、飢えて死んじゃうのはもっと嫌です。
森を拓くと畑ができたので、ご飯が食べられます。子供も大人になり、大人達は子供を作り、だんだんと人口が増えてきます…だんだん街ができます。都ができます。
そうすると、キリストをありがたいと思う人が増えていくのは自然な流れですよね。
しかし、当時の人たちがありがたがったのは、キリストでなくマリア様だったのです。
マリア信仰?なんでやねん!!
お貴族様ですら、文字が読めない人が普通にいた時代。識字率はとっても低いです。
聖書は超超ちょーう貴重品で、しかもラテン語で書かれていて、日曜礼拝の説教も当然ラテン語です(布教する気あんのか…)。
なので、民衆に布教する為、教会の壁画などに、聖書の物語をわかりやすーく描いたもの。
コレが宗教画になります。
しかし、イエス様は民衆ウケがあまり良くなく、替わりにマリア様がめちゃくちゃウケまし
だって、絵で見たらキレイな女の方ですし、処女懐胎してますからね…
上のフレイヤみたいな女神様の替わりにされてしまったのです。
ノートルダム大聖堂などは「我らの貴婦人」という意味でマリア様を指しています。
マリア様は聖人のひとりで、カトリックでは、神の母であり、すべての人の母とされているのですけど、崇拝するのは少し的が外れています。プロテスタントではそこまで崇拝してませんし。
コレは例え話ですが、私たち日本人はすごいなぁと思う人をすぐ神よばわりしますよね。
それは、私たちの一人一人の中に神がいるっていう神道的な考え方でもあります。
しかし、歌手でもアイドルでもスポーツ選手でも本人が努力していることに胸をうたれてファンになるわけです。あなたにアイドルなどの推しがいたとして、推しを産んだお母さんも尊い存在には違いないけれど、お母さんまで推しにするのはちょっと違うと思います…。
マリア様も同じです。受胎告知をうけて、処女懐胎して、神の子イエスを産んだのには違いないですが、奇跡を起こしたのはイエス本人です。
ヨーロッパで形を変えたキリスト教
民衆にキリスト教を教えるのは、上記の通り結構な苦労があったわけです。
当初教会は、日常的に神々の力を感じていたことを批判して、一神教に落とし込みをしようとしましたが、急に考え方を変えるのは難しいので、従来の多神教を受け入れようともしました。
守護聖人や守護天使、聖ヴァレンタインや聖ニコラウス(サンタクロース)など、従来の民俗信仰を基にした聖人たちがキリスト教には存在します。
昔のローマの神々の役割を、聖人や天使に呼び替えたわけですね。
そうしないと、なかなかキリスト教が根付かなかったからです。
中世ヨーロッパの人になった気持ちで「名画の謎 旧約・新約聖書篇」を読んでみよう
私たち日本人はあまり聖書の知識がありません…正直、宗教というもの自体に疑問を感じていますしね。
ですが、中世のヨーロッパの人々が感じたように宗教画を美しいと思える感性はあります。
中野京子先生の詳しく楽しい解説と共に、中世の人たちになったつもりで、この本で宗教画を楽しんでみたらいかがでしょうか。
きっと新しい発見がありますよ。